日本ではじめてアメリカに渡ったお茶

さしま茶の由来

さしま茶の由来

故郷は茨城県西部、かつての下総国。坂東太郎・利根川流域の猿島台地が生んだ、古河、坂東、常総、八千代、境の3市2町の誇り「さしま茶」。肥沃な土地に育まれた濃厚な香り、コク味は特筆すべきもの。水運要衝の地に生まれた銘茶として、その多くが江戸に運ばれ、「さしま茶」は下総国の名産として、多くの人々に親しまれました。

さしま地方とは

 当産地は関東地方のほぼ中央に位置し、日光連山を源とする鬼怒川と利根川に挟まれた茨城県西部地域3市(古河市・坂東市・常総市)2町(八千代町・境町)からなっています。

 土壌は火山灰性洪積で、気候は年平均気温14℃年間降水量

1250㍉、温暖で太平洋型であるが内陸性気候を併せもち、夏暑く冬強い北西の風によって寒くなります。

 このような自然条件から生産される「さしま茶」は、肥沃な土壌と冬の寒さから茶葉に厚みがあるため製茶すると濃厚な味と香りが立ち昇り、コクのあるのが特徴です。

 現在は深蒸し製法が主流となり、個々の生産者が自園・自製・自販の茶業経営を展開し一段と、うま味を引き立たせています。 

黒船来航と中山元成

1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航、幕府に開港と交易の開始を強く迫ります。

地元の豪農・中山元成は、「さしま茶」の国内各地への販売を関宿藩より託されていましたが、ペリー来航を機に、海外市場に注目。

翌年再来日の折、幕府との折衝に接する機会に恵まれ、開国の重要性を痛感したのでした。

海を渡ってアメリカへ

海外交易の必要性に目覚めた中山元成は、その後アメリカ総領事ハリスにも接触、「さしま茶」の宣伝に奔走します。

1859(安政6)年、日米修好通商条約発効と同時に、全国の茶名産地に先駆けて「さしま茶」のアメリカ輸出に成功。

海を渡った初の日本茶として名声を博し、明治期に至る日本国内茶産業隆盛の礎を築きました。

盛んになる日本茶貿易

「さしま茶」の後を追うように、日本各地の茶名産地も海外交易に続々参画。明治に向け、日本茶輸出は隆盛期を迎えます。

特にアメリカへの輸出が大盛況。

サンフランシスコへの直航便就航や大陸横断鉄道の開通など、インフラ整備にも後押しされて、輸出量はうなぎ上り。

開港からわずか8年で、日本茶輸出量は約25倍の多きに達しました。

日本茶に訪れた苦悩

多くのバックオーダーに応えようと時に日本茶は粗製濫造に走り、幾多の危機を迎えました。

特にアメリカの「粗製茶輸入禁止条例」、「着色茶絶対輸入禁止令」は、大きな痛手となりました。

また、インドや中国など、安くて大量の製茶を提供するライバルの台頭、そして戦争の影により、明治後期以降、日本茶輸出は苦悩の時代へと向います。

茨城から再び世界へ

 Re bornさしま茶

20163月、「さしま茶」の西アフリカ「ニジェール共和国」への輸出が正式に決定しました。

また、アメリカ市場再開拓プロジェクトがスタートするなど、日本で初めて海外に認められた「さしま茶」は、中山元成翁の想いを胸に、今再び世界へと羽ばたこうとしています。

1627(寛永4年)時の関宿藩主小笠原氏により茶畑に検地が行われ、

「さしま茶」が産業として認められました。

1834(天保5年)さしま茶の父・中山元成翁、宇治茶製法を導入、

「さしま茶」の品質が一気に上昇しました。

1839(天保10年)中山翁と共に、さしま茶の普及に献身した野村佐平治翁の自家製茶「江戸の花」が、江戸市場で大好評。

1853(嘉永6年)関宿藩主久世広周が江戸に藩の物産会所を設置。

「さしま茶」がいよいよ積極的に売り出されました。

ペリーが浦賀に来航。中山元成翁、米国との交渉を間近に見る機会に恵まれ、開国の重要性を悟ります。

1859(安政6年)中山翁、横浜開国と同時に米国商館ウォルシュ・ホール商会を通じて、日本初の茶輸出に成功しました。

1874(明治7年)日本茶の輸出大盛況。この年、輸出シェア38%を記録、当時の主要産物生糸を抜きました。

1888(明治21年)時の農商務大臣榎本武揚に、「さしま茶」が日本茶輸出の嚆矢として、正式に顕彰されました。

1895(明治28年)野村佐平治翁、「野村流製茶」法を提唱。当時の最先端を行く、製茶技術を確立しました。

1917(大正6年)正親町伯爵より、日本茶海外輸出の範として、「さしま茶」と中山翁の功績が追認せられました。

2009(平成21年)「さしま茶」協会を設立。国内のみならず、世界を相手にした茶貿易への再挑戦が始まりました。

2016(平成28年)アフリカ・ニジェール国への輸出を始め、日本茶の魅力を改めて世界に向けてアピールしています。